異空間への扉
昔父に誘われて、地元のアクティビティ施設に行ったことがある。そこはビルのように高い建物で、冬場は必ず風邪を移されるからと母は絶対に連れて行ってくれなかったのだが、その日は夏休みだった。夏でも風邪はひくのよ、とやや潔癖のきらいがある母は文句を言いながらも、私たちが遊びに行くことに渋々許可をくれた。
父のお目当ては、建物の最上階にある夏季限定のお化け屋敷だった。私はあまり乗り気ではなかったのだが、施設内の他の遊具で遊ぶのは楽しいし、帰りにアイスを買ってくれると言うので連れて行ってもらうことにしたのだ。
「誰か友達も誘うか?」と父が言うので、私は父とも面識がある友人のりっこを誘った。
父の車で施設に行き、その間私とりっこはDSでゲームをしていた。「酔うぞ」と父の忠告も無視し、私たちはたまごっちやどうぶつの森で遊んだ。
施設に着いてすぐ、父は私たちに「先に上に行っといて」と言った。何故かと尋ねると、どうやらお化け屋敷の入場チケットは一階の受付を介して手に入れるらしく、どうせ上は混んでいるから先に行って並んでおいてくれ、ということらしい。
私たちは奥のエレベーターに乗り込み、上へ行くボタンを押した。「屋上まで行くんじゃないぞ」とのことだったので、そこは十分に気を付けた。
受付の混雑に反して、エレベーターには私たち以外誰も乗っていなかった。
「楽しみだねえ」とりっこは目を輝かせるが、私はそんなことより帰りのアイスの方が楽しみだ。バニラにしようか、それともここはチョコだろうか、と一人アイスに思いを馳せる。(父の言うアイスとはたいていサーティワンのことだ)
チン、と音が鳴り、エレベーターのドアが開く。
「あれえ」とりっこは素っ頓狂な声を上げた。その声につられ、私も外に視線を向ける。
「全然人がいない」
扉の向こうには通路を挟んで壁があった。ここで開催されているはずの、お化け屋敷のポスターが二枚貼られている。
「早く出て」エレベーターボーイのような、しかし格好は清掃員のような工事のおじさんのような、古臭いツナギを着た男が、物陰からぼそっと私たちに声をかける。
あっ、ごめんなさい。と私たちが飛び出すと同時に、エレベーターの扉はゆっくりと閉じられる。「あっちね」男は通路の向こうを指さす。
何か変だぞ、と私の拙い勘がそう告げていた。
男に示された方を、りっことしがみつき合いながら進んでいくが、特に何が起こるわけでもない。それに、やっぱり誰もいない。しばらくして突き当たりが見え、どっちに行くかで意見が割れる。「右だよ」後ろから男の声がする。
言われたまま進んでいくが、次の突き当たりに着いてもやはり何も起こらない。「次も右だよ」りっこが右に行こうとして、私は「待って」とりっこの腕を掴む。
これ以上進んでは駄目。少なくとも右は駄目。だって。
私は音をたてないようにゆっくりと奥を指さす。
りっこに服を引かれ、私は影に身をひそめた。
「何あれ……お葬式?狐?」
右側には、黒い着物を着た数人の集団が列を作ってこちらに向かってきていた。そしてその顔には、皆灰色の狐の面が付けてある。いや、そもそも顔が狐なのだろうか。
突然のパニックに思考が安定しないまま、私は「戻ろう」と囁く。
うん、と素直なりっこだが、明らかに黒い着物(今思えばあれは黒装束だ)の集団に後ろ髪を引かれている。
もう、と強引にりっこの腕を引っ張ると、黒装束の集団は私たちの存在に気付いたかのように突然歩くスピードを上げた。来る。
私たちはとにかく走り、もとのエレベーターのところまで戻って来た。男はもういなかった。
ボタンを何度も押し、早く来てと心の中で祈る。
「ねえロミー」
横に振り向くと、黒装束の集団が丁度通路の角を曲がって来た。ぎゃあ、と私たちは一緒に悲鳴を上げる。ふと、先頭の狐の手元の遺影に目が移った。顔はよく見えなかったが、何となくさっきの男に似ているような気がした。
チン、と音を立てエレベーターが開く。転がるように中に乗り込み、ボタンを連打すると幸いにもエレベーターはすぐに閉まってくれた。
それから、私たちは一階へと戻って来た。入れ違いで他の人たちが乗って来るが、皆私たちの顔面蒼白具合に不思議そうな顔をしていた。
「何だ、まだ行ってなかったのか」
父が向こうからやって来る。
たった今経験した出来事を話して聞かせるが、父はいまいちピンときていないようだ。
「今年のコンセプトは口裂け女じゃなかったか?何だ狐って、こっくりさんか?」
とにかく来てみれば分かるから、と父を連れてさっきと同じ階へ向かったが、迎えてくれたのはツナギの男などではなく、可愛らしいメイドのような恰好をしたお姉さんだった。正面は壁などではなく、広いホテルのロビーのような空間だ。順番待ちの列がぐるぐるとうずを巻いているのが見えた。
「何が狐だよ。お前たち、ゲームばっかしてるから酔って変な幻でも見たんじゃないか」
そんなはずない。と思ったが、だんだん実はそうなのかも、と思い始めてきた。周囲のざわめきに身を任せていると、まさに狐につままれたように錯覚してしまう。
「まあいいや、行こうロミー」
唯一の共同体験者であるりっこも、能天気に列へと並んでしまう。このころからりっこはこんな感じだ。メンタルが強くて、好奇心旺盛で切り替えが早い。
たしかこれは、私たちが小学二年生の頃の話。